当院のご案内
中の島あおば鍼灸整骨院の施術への想い
「人々の喜びと幸せの創造」という理念を掲げ、生活の安定と質の向上を約束します。
現在あおばグループには400人以上のスタッフが従事しています。そして全員が、地域の皆様に心身ともに健康になっていただき、喜びや安心、前向きに生きる力を感じてもらえるよう、持てる力を最大限に活かして施術にあたっています。
「地域の皆様を健康へ導き、健康寿命を延ばす」という理念を実現するため、生活の安定と質の向上をはかり、健康であり続けるためのサポートを全力で行います。
スタッフのご紹介
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患者様と深く関わり、
何でも相談できる鍼灸整骨院
- 奥田和輝(おくだ かずき)
- 中の島あおば鍼灸整骨院 院長
- 出身地:北海道 札幌市
血液型:A型
趣味・特技:サッカー、お酒
資格:柔道整復師
- 地域のみなさまへ施術をするだけでなく、患者様お一人お一人としっかりと関わりを持って心も元気になっていただけるように尽力していきます。何かあったときはお気軽にご相談ください。
施術家になるまでの自分 私は小学校3年生から高校3年生までサッカーをしていました。名門校出身というわけでもなくさほどレベルは高くありませんでしたが、中学、高校と競技レベルが激しくなるにつれ、足首や膝、股関節と様々な部位のケガをするようになりました。当時はストレッチや柔軟体操の重要性がわかっておらず、日頃から体のケアをしていたわけではなかったので、今考えるとケガをして当然だったなと思います。高校2年の春に膝のケガをした際、放っておけば良くなると考えていたのですが、なかなか痛みが治まらず、両親が定期的に通っていた地元の個人整骨院を紹介されて重い腰を上げ受診してみました。そこはご夫婦で営んでおられ、ご主人が院長で柔道整復師・鍼灸師、奥様が鍼灸師として働いていました。マッサージや電気施術、鍼施術を行ってもらい、最初は痛いようなくすぐったいような感覚であまり気持ちのいいものではなく、もう行きたくないと思ったことを覚えています。
高校3年の春、大事な大会の前に足首を負傷し、その際もその整骨院を受診したのですが、試合当日の朝、開院時間前に特別にテーピングを巻いていただいてとても感謝したのを覚えています。同時に、私も感謝される仕事に就きたい!この仕事めっちゃかっこいいじゃん!と思いました。進路に困っていた18歳の少年はそこから施術家というものに憧れを持つようになり、柔道整復師の専門学校へ進学することを決意しました。
専門学校での3年間は楽しくもあり苦しくもあり…な毎日で、どちらかといえば不真面目な学生生活を送っていたと思います。昼間は学校、夜は居酒屋でアルバイトをし、調理の道も悪くないなと思い始めたころ、皿の洗いすぎで肩を負傷しました。何日経っても肩の痛みが治まらず、またまた地元の整骨院にお世話になりました。痛めた経緯を説明し、自分が今同じ業種の専門学校に通っていると伝えたとき、院長から衝撃の一言が。「お前、そんなところで働いてないでうちで働いたらええやん。」このノリの良い感じとすぐに受け入れてくれる器の大きさに断る理由が見当たらず、翌日居酒屋のアルバイトをすぐに辞め、地元の整骨院で働き始めました。
これが施術家としての第一歩を踏み始めた経緯になります。
新人・修行時代の自分
地元の整骨院でアルバイトを始めることが出来た私ですが、主な業務内容は受付・会計業務、電気施術の付け外しで、院長の指示に従って業務を行っていました。院長が施術している様子を患者様の邪魔にならないように見学し、少しでも何かを得ようとしていたことを覚えています。休み時間には指圧の練習や物理療法の使い方、問診の仕方なども丁寧に教えてもらうことができました。この頃に、指圧練習でよく言われる「指が壊れる」経験をしていました。
国家試験に合格し、晴れて柔道整復師の資格を取得した後はお世話になった地元の整骨院ではなく、札幌市内で5店舗展開+市内全域の往診をしていたグループ院に就職しました。理由は待遇面や労働時間等そちらの方が良かったからです。
就職後、アルバイトをしていた経験を活かし、また、就職先の院長・社長がとても優しかったため、沢山の患者様の施術に入ることが出来ました。当時は今のような社内研修や社内勉強会等が少ない時代であったため、外部の研修や独学、実際の患者様の体を通して技術の鍛錬を行っていきました。
施術家であると同時に接客商売であることも認識していたため、ビジネスマナーの勉強(独学)や患者様との話題作りのために新聞を購読したり、毎朝ニュースを見るなどを欠かさずに行っていました。それもあってか、患者様からは割と好かれることが多かったと思います。
この経験が、今の自分の基盤になっていると言っても過言ではありません。
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